ようこそ。睡眠不足なプログラマのチラ裏です。

転がっているアイディアを

ちょっとしたアイディアを出す。


すると、「丁度、わたしも同じ様なことを考えていたんですよ。」
と言い出す人がいるが、あれはたぶん錯覚だ。
自分もそう思ったことが何度もあるので、経験的にその人がウソを言っているわけではないのはわかる。
ただ、「考えていた。」という表現は不正確な気がします。



百歩譲って、頭の中に既に同じアイディアがあったとする。しかし、その「頭の中にある考え」というのが
実際に言葉や文章になっていたり、絵や彫刻となって形としてそこに存在しない以上、
それは事実上「考えられていなかった。」のだと思う。とは言ってみたものの、
「それやろうと思っていたのに!先にやられてしまった!」とか、負け惜しみのようなこと。
ついつい口走ってしまう。言い放った後に我に返って、またやってしまったと反省だ。



少し考えてみればわかることだが、「同じアイディアが既に自分の中にもあったんだ。」
という感覚は、錯覚であることがほとんどだと思う。
それと同様に、誰かのアイディアを聞いたり、何かの作品を見たときに、
「ふ〜ん、別に大したアイディアではないね。」と思うことがあります。
このときの「大したものである。大したものではない。」と評価する基準は、
それがいかに素晴らしいかどうかを天秤にかけるかというよりも、
そのアイディアが、いかに自分にとって奇抜であるか、奇想天外か、あるいは、自分の常識では全く理解できない場合など。
つまり、自分との距離を大きく感じるときの事が多いように思います。
距離が遠ければ、「私にはとても考えつかない。素晴らしいアイディアだ!」と思いやすい。



逆に、「同じようなことを考えていた。」と思うようなアイディアというのは、
自分との距離がとても近かった場合に多い。あたかも、既に自分の頭の中にあったかのような錯覚が起こる。
言葉には出てこなかったけど、すでに頭の中では「考えていた」という錯覚が。



でも、距離があるのかどうかなんて、アイディアの質とは全く関係ないですよね。
確かに、遠いアイディアってのはすごく良く見えたり、聞いて「イイねぇそれ!」なんて思うけど、
ただ遠いだけで中身がなかったり。ただそれだけ。なんてことは結構あります。
反対に、その辺の道端に転がっているような。すぐ足元に落ちているような、
そういう近いアイディアのほうが、案外「使えるアイディア」であることが多いような。
特許でボロ儲けなんて例は、身近なアイディアほど実用的であるというお手本ですね。


しかし、上に述べてきたことをまとめると、
「近いアイディア」=「使える」=「ちょうど私も同じこと考えていたんですよ。」=「別に大したことないアイディア」
となってしまう。これでは使えることは認めたとしても、あまり感心しないことになる。
これでは、ちょっとおかしい。この等式は成立しないと思う。


そもそも、遠いアイディアが自分では見つけられないもので。
近いアイディアなら、自分にでも簡単に見つけられる、と思うことが錯覚なのかもしれません。
足元に転がってるようなアイディア。それを見つけて拾い上げることは、そう容易くはできないことだと思う。


「灯台下暗し」とは、昔の人はうまいこと言ったものですな。
明日は面白い石が拾えるといいねえ(´ω`)